生き残る地名物産地理の授業

2010-05-10

午後から自分が住んでいる地区の中学校で、社会科地理的分野の授業を見ることができました。ここ数年、何回か中学校社会科地理的分野の授業を見る機会がありましたが、残念ながら今日の授業も、ショックのあまり頭が痛くなってしまうものでした。

授業の流れは、次のような感じです。
(発言者が示されていない「  」は先生の指示・発問です)
1 「今日からアメリカ合衆国について学習していきます。」といいながら、アメリカ合衆国と板書(「衆」という漢字の筆順と書き方が間違っているのも気になりました。)
2 「今日は、まず、アメリカ合衆国のあらましについて調べていきます。」と言うと、生徒から「あらまし」って何ですかという質問。答えることなく、先生は「じゃ、概要ね。」と言って概要と板書。
3 学習プリントを配付(上半分に縮尺表示のない白地図。下半分に、面積/人口/人口密度を記入する欄があり、その下に本時で調べる代表的な山脈や都市名が列記されているもの)
4 「ロッキー山脈とアパラチア山脈はどこにあるかな?」と言いながら「ロッキー山脈はここ、アパラチア山脈はここだね」と黒板に拡大表示した白地図に自ら記入。しかし、白地図にはロッキーやアパラチアが示されていないので、生徒はおよそこのあたりという位置に山脈名を記入。
5 「中央平原はここ」と言いながら、同じように白地図上で図示。生徒の反応は山脈と同じ。
6 「プレーリーとグレートプレーンズはどこかわかるかな?ここだね。」と言って白地図上で図示。
7 「ミシシッピ川はここだね。」と言って、先生は白地図にだいたいの流路を描くが、地図を見ながら白地図にうまく書き込むことができない生徒は悩みながら作業に取り組む。
8「プリントには五大湖とあるけれど、地図帳にはないんだ。ここにある5つの湖をまとめて五大湖というんだ」と言って、湖を青で着色する。
9「プリントにある都市はどこにあるか調べてみよう。」と指示すると、生徒は地図帳で都市の位置を探し始める。しかし、索引で調べようした生徒は、三十数名のクラスの中で1人だけ。しかも、この生徒も途中から他の生徒と同じように索引を使わずアメリカ合衆国の地図を見ながら都市を探し始める。途中、生徒の一人が「ワシントンが2つあるよ。」とつぶやく。すると、「それは都市の名前ではなくて、州の名前だよ。」と先生。すかさず別の生徒が「ワシントンD.C.が都市だよ。」とつぶやく。
10 「教科書を読んでみよう」と先生。生徒は静かに読み始める。そして「アメリカ合衆国で生まれたものには、どんなものがあるかな?」といいながら、「生まれたもの」と板書。
11 「まず。食べ物は?」と発問。ハンバーガーを生徒に答えさせる。そして「何ハンバーグ?」と聞くと、生徒は「マック」と答える。生徒が「モス」もというと、先生は「モスは日本」。
それから「スポーツでは何があるかな?」や「衣服や音楽はどうかな?」と生徒に聞きながら、黒板上でまとめていく。
12 「スーパーマーケットもアメリカ合衆国で生まれたんだ。写真を見てみよう」と、教科書にあるショッピングセンターの写真を確認。すると、生徒が「先生は行ったことがあるの?」と質問。「アメリカではないが、リオではある。リオのスーパーは写真のものよりも大きかった。駐車場で変な所に停めると、買い物するのがたいへんだった」という話から始まり、買い物カゴや飲用水の種類の話に発展。
13 落ち着いた所で「ワークを開きましょう。調べないで、山脈の名前や都市の名前などが書けるかな?やってみましょう。」と言ったところで時間。そこで、「残ったところは、家でやっておきましょう。」と指示して、本時終了。

どうですか?これが社会科でやるべきことですか?これで、調べ方や学び方(地理的見方や考え方)は身につく訳がないでしょう。

私は、この授業だけが特別なのではないと、これまでの参観の経験から考えます。残念ながら、このような地名物産の地理を、一方的な知識注入型のスタイルで教え込むような社会科が地理的分野では多いのです。
今日の授業を見せてくださった先生は、新しい学習指導要領の下でも、同じような授業を社会科として続けていく可能性が大きいように思います。

考えたくはありませんが、学習指導要領の改訂における「地誌的な学習の重視」は「地名物産の地理の復活」と同義と思っている中学校社会科教員が、世の中にはたくさんいるのかもしれません・・・