「場所性」の放棄

2011-05-03

連休後半が始まりました。

時間ができたので、「空間」と「場所」の二語を検索窓に入れてみました。すると、人文主義地理学者として知られるエドワード・レルフ「場所の現象学」を要約して紹介しているサイトを見つけました。

場所の現象学―没場所性を越えて (ちくま学芸文庫)
エドワード レルフ
筑摩書房
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この本は何年か前に翻訳本を図書館から借りて読んだことがあります。しかし、何かと理解力のない私にはいささか読みにくく感じた本でした。

この要約にもあるように、「空間」と「場所」は別物として語られることが普通になってきています。(こうした概念の整理がどのように行われてきたのか、また、どのように行われつつあるのかということに関しては、もう一度自分なりに再学習してみようと考えています・・・「空間分析における人間不在という批判」の潮流は人文主義だけではないですし、「空間」は「場所」であり、「場所」は「空間」であるという多義性を持つ存在として認識すべきではないかと・・・)

計量革命以降、周知のように、地理学では空間分析が対象としていた「空間」(客観的な物理的訓観としての「空間」)ははたして存在するのかという新たな問いが起こりました。その結果、現代地理学の潮流は次のステージに進むことになりました。

エドワード・レルフは「空間」とは違う「場所」としての理解の必要性を主張し、空間分析における人間不在の問題を批判します。

さて、この要約で紹介されている「場所性」の放棄に関する説明が心に留まりました。この中にある「アメリカの誰もいない砂漠」に対する政府と先住民の対立と結末は、「東北」地域と「東北」人の歩みと重なって、さまざまなことを考えさせてくれます。

3・11以降、地理学者が日本社会に対して発言すべきことは、防災への対応や復興後の町づくりに関することだけでいいのでしょうか?

幸せな人生を期待する市民が立ち向かわなくてはならない空間や場所をめぐる問題の現状を提示し、考えるための視点をわかりやすく明示することが求められているのではないかと私は考えます。

ある意味、現在は地理学のレーゾンデートルが問われている時なのかもしれません。

要約の一部を引用しておきます。

没場所・・・・現代世界は「没場所」に溢れ、地理学はそれに加担している?
・「場所」の多様性=人間の捉え方を考慮に入れない場所。
「コピー&ペースト」が如く、同じような景観が量産→「ディズニー化」(砂漠の中のおとぎの国) 無理に「場所的」な物を強調。人々の「場所の多様性」を拒否して「見え方」を最初から提示 →「博物館化」⇛「地域活性化」論に警鐘(活性化=善、衰退=悪の二元論)
●久繁哲之介 (2010)『地域再生の罠ーなぜ市民と地方は豊かになれないか』(ちくま新書)
●竹井隆人(2009)『社会をつくる自由-反コミュニティのデモクラシー』(ちくま新書)
・「場所性」の放棄・・・「位置情報化」の功罪(「条件検索」&「置換」で地域は理解可能?)
ex.アメリカの誰もいない砂漠
<政府>不毛の地高レベル核廃棄物のゴミ捨て場として「最適」
<先住民>「聖地」故に誰も近寄らせなかった
⇛先住民は、すったもんだの議論の末に「受け入れ」を選択

(鎌田 遵(2007)『ネイティブアメリカンー先住民社会の現在』(岩波新書)

・「ディズニー化」 「マクドナルド化」 あらかじめ決められた規格があり、「もうけの方程式」があり、同質のものが場所を選ばず →日本でいうなら「イオン化」か?
・日本の原風景『水田』も実は「没場所」だったりする。
→出回っているコメの3分の2が「コシヒカリ」ファミリー
佐藤 洋一郎(2010)『コシヒカリより美味い米』朝日新書
これからの世界が選ぶ道の選択肢は2つ・・・「場所」がある世界 or「没場所」ばかりの世界
・没場所への抵抗=結局「没場所」・・・「博物館化」 (変化を拒否、展示資料がごとき解釈の強要)
→これはこれで息苦しい。「○○を世界遺産に」