ケイパビリティ・アプローチとは?──センとヌスバウムが示した「生きる力」の視点

2013年頃から欧米で注目されている「ジオ・ケイパビリティー(GeoCapabilities)」という新しい地理教育の考え方があります。この考え方は、単に地理の事実を覚えるだけでなく、その知識を使って「自分は何を選び、何を実現できるのか」という、一人ひとりの実質的な自由や可能性を広げることを目指していくものです。

この考え方の土台には、アマルティア・センとマーサ・ヌスバウムという学者が作った「ケイパビリティ・アプローチ(Capability Approach)」という理論があることが知られています。

この記事では、ノーベル賞経済学者のアマルティア・センと政治哲学者マーサ・ヌスバウムが提唱した「ケイパビリティ・アプローチ(Capability Approach)」という「ジオ・ケイパビリティー(GeoCapabilities)」プロジェクトの土台となった理論について簡単に紹介します。

アマルティア・センによる起源

アマルティア・センは1979年、講演「Equality of What?」で、「幸せ=所得やモノの多さ」ではなく「人が本当にやりたいことを選び、実現できる(capabilities)」が重要だと提案しました。それまでの経済学や福祉では、収入やGDPの多さが社会の良し悪しを測る指標でしたが、センは「自由に選べる人生の幅」や「自己実現できるかどうか」に着目すべきだと主張しました。

センの能力アプローチは、「個人が価値ある生活を送ることができる自由の程度」を見えるかたちで評価するための理論となっています。この考え方は、教育や社会政策、福祉、人権など幅広い分野で注目されています。

マーサ・ヌスバウムによるセンの評価の核心

基本的理念への賛同と評価

マーサ・ヌスバウムは、センの「人間の尊厳や多様な価値観を尊重する」という視点に深く賛同しました。社会の幸福度は単なる経済的な豊かさだけでなく、それぞれの人が求める生き方や、社会への参加の自由がいかに保障されているかにこそ意義があると評価しています。

センに対する建設的批判

しかし、ヌスバウムは、センの理論には「何が重要な能力なのか」が明示されていない点、つまり能力のリストがないことを課題だと考えました。

センは「文化や状況で重要な能力は異なる」と考え、あえて決めていませんでした。そのため、実際の政策づくりや教育現場で使う際には戸惑いが生じやすかったのです。

評価の背景にある問題意識

ヌスバウムは、女性の人権保障や途上国の状況など、現場での「今すぐ使える具体的な指針」が必要だと感じていました。議論がまとまるのを待っていては、目の前の課題に即応できません。

こうした背景から、2000年の著書『Women and Human Development: The Capabilities Approach』で、理論を現実の政策や教育に活かすための枠組みを具体的に提案しました。

ヌスバウムの解決策

ヌスバウムは「中心的な能力(central human capabilities)」として、すべての人が人間らしい生活を送るうえで最低限必要な10個の力をリスト化しました。

たとえば、「健康に生きる」「尊厳のある労働ができる」「自由に社会や政治に関わる」などです。このリストは想像・表現・感情・社会的つながりなど多様な面に及び、政策作りや教育現場の具体的な指針として活用できるようになっています。

『Women and Human Development: The Capabilities Approach』の第2章で体系的に示され、今も福祉政策や教育カリキュラム設計で重視されています。

両者の理念的相違

アマルティア・センマーサ・ヌスバウム
能力の重要性は民主的な議論で決める普遍的な「中心的な能力(central human capabilities)」リスト」を明示
柔軟性・多様性・文脈への適応を重視現場への実践的応用・明確な指針を重視
経済学・社会選択理論が中心政治哲学・人間の尊厳を基盤に据える

両者は「人間らしい生活のために能力の自由度が欠かせない」と考える点で共通ですが、どうやってその能力を決めるかについて異なる道を選びました。センは「民主的議論を通じて能力リストを決定すべき」とする手続き的アプローチを重視しましたが、ヌスバウムは「最低限の普遍的能力は事前に特定されるべき」とする実質的アプローチを主張したのでした。

まとめにかえて

英語圏の地理教育を中心にジオ・ケイパビリティー(GeoCapabilities)が注目されてきたのは、生徒一人ひとりが「自己実現する力」や「人生の選択肢を広げる力」を身につけること、そしてそれを支えるカリキュラム設計が大切にされていたからです。

センやマーサ・ヌスバウムが提唱した理論は、地理教育を含めた教育の分野だけでなく、福祉や人権の分野で今なお大きな広がりを見せています。

「どんな知識や機会が“自分らしい人生”につながるのか」――その問いを考え続けることが、私たちの社会や教育の未来づくりには欠かせないのですが・・・。